「愛ってなんだろう」感情のない少年が見る“愛”と“無関心”
なぜこんなにも傷つている人がいるのだろうか。なぜ共感していながら人を救わないのだろうか。
「愛」や「感情」について深く考えさせれらた韓国小説、『アーモンド』を紹介します。
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あらすじ
主人公のユンジェは、感情の形成に関わる偏桃体(アーモンド)が生まれつき人より小さいために、“感情”というものが分からない。母と祖母に育てられ、「感情教育」をされてもなお学校では変人扱いされてしまう。ある事件により母と祖母が目の前で殺されても、彼は無表情のまま。そんな中、施設で育った少年・ゴニとの出会いによって、彼の中の感情が芽生え始め…
母と祖母の特大の愛
ユンジェは普通ではない少年。そんな彼を、母はなんとか学校や社会の中で困らないようにと「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪」「欲」の感情を“暗記”させることによって普通になじませようとしていきます。
祖母はそんな母の様子を見て、丸暗記に意味はないと批判し、彼を「かわいい怪物」ととても大事に育てます。
そんな祖母が思う「愛」とは、「かわいさの発見」だといいます。「可愛い」とは「愛することができる(可能である)」と書きます。かわいいと思っている人に対して接する時、それは愛をもって接しているのかもしれません。そして、自分を愛することもまた、自分のかわいさを発見することなのではないかとこの文章を読んで実感しました。
そして現代には、「かわいさの発見」が足りていないのではないでしょうか?あいつのこういう発言が嫌だ、行動が嫌だ、理解できない…そうして遠ざけている人の中にもかわいさはある。年齢や役職、性別といったその人を取り囲むものを取り除いた、その人自身にかわいさは宿るのではないでしょうか?ユンジェの祖母の発言によって、人を愛するとは何なのか、考えさせられました。
そしてユンジェが社会生活で困らないよう助ける母も、とても愛に溢れている人だと感じました。ユンジェの特性に絶望し泣きながらも、彼が幸せに過ごせるよう、精一杯の愛をもって彼を育てている。どんな子に生まれようと、我が子に愛をもって接する彼女の覚悟に感動しました。
感情がないからこそ思う「愛」と「無関心」
この物語は、感情のないユンジェの語りで進んでいきます。だからこそ余計な感情がなくとてもすっきりと読みやすく進んでいくのですが、彼だからこそ思う、現代社会へのおかしさにとても説得力があるのです。
例えば、こんな言葉があります。
愛というのは究極の概念だ。規定できない何かを、かろうじて単語の中に閉じ込めたもの。でもその単語は、あまりにも気軽に使われていた。ただ単に気分がいいとか、ありがとうという意味で、平気で愛を口にする。
彼によると、私たちは「愛」を簡単に口にするのだといいます。
そもそも、愛とはなんでしょうか?好きな物にも、人にも、キャラクターにも、なんにでも「愛」という言葉を使う。となると、きっと感情のない彼には愛が一番わからないのだと思います。
しかし、彼の言葉からは、なんでもかんでも「愛」で片づけようとする風潮への批判的態度も感じられます。簡単に愛というけれど、本当に簡単に愛が生まれるのならば、なぜ世界ではこんなにも傷ついている人がいるのだろうか?もっと「愛」を大切にした方が良いのではないだろうか?そんなことを、彼は思っているのではないでしょうか。
他にもこんな言葉をつぶやいていました。
感じる、共感するというけれど、僕が思うに、それは本物ではなかった。
人の寂しさを感じるのならば、助けてあげるのが「普通」だろう。共感するのならば、寄り添ってあげるのが「普通」だろう。でも人はそうしない。だから彼は、「感じる」「共感する」が、ニセモノだと思っているのです。
感じる・共感するといっておきながら行動しない私たちは、無関心なのでしょうか。他者との間にたくさんの壁が生まれてしまっている昨今、それは必然的なことなのかもしれません。無関心でないと心がもたないことが多すぎるからかもしれません。それを乗り越えるのが「愛」なのだとしたら、ユンジェは大きな愛をもっている存在なのではないかと思いました。
誰もが「かわいい」存在である
ユンジェの同級生であり、クラスからも実の親からも疎まれている少年・ゴニ。ゴニはユンジェのことを気にかけ、ユンジェもまた、ゴニによって感情が芽生えはじめます。
この二人の関係性を見て、誰も、「かわいくない」やつなんていないのではないかと思い始めました。しかし、分かりやすくかわいい人、かわいさが分かりにくい人がいるから、人は対立し、孤立し、愛の不足によって他者が攻撃される。
ユンジェの祖母が言ったように、どんな人の中にも「かわいさを発見」することが、人を救い、社会を変えるのではないかと本気で思いました。ユンジェには冷たい目で見られるかもしれませんが(すでに無表情ですが)、世界を変えることに必要なのは「愛」なのだと思わされました。
”ロマンチック”で無視していることはなにか『僕の狂ったフェミ彼女』
誰かから見たら、優しくてロマンチックな男。誰かから見たら、良い顔して女を下に見てるクソ男。
恋愛において何を求めるのかは、人によって違う。女がみな資金力があり可愛がってくれる男を求めているわけではない。そして世界には恋愛そのものをしない人だっている。
なぜ、恋愛になると、途端にすべての人の個性や望みが無視されることが多いのでしょうか。
そんな、恋愛やロマンチックに潜むジェンダーの問題に切り込んだ作品、『僕の狂ったフェミ彼女』。
恋愛における“そういうこと”にされている数々のもやもやだけでなく、韓国での家族・結婚の状況も知ることができる、素敵な1冊でした。
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語り手が必ずしも正しいとは限らないこと
この物語は、タイトルからも分かるように、フェミニストであるパートナーをもつ主人公の目線で語られます。
主人公は、彼女がフェミニストであることに対して、「どうしてこんなことになってしまったんだ」「昔の可愛くて優しかった彼女に戻したい」と、まるで悪魔に憑りつかれたかのように落胆します。だから彼女の「女らしくない」行動は全て気に食わないけど、我慢して優しく優しく接して、彼女を少しづつ「軌道修正」していこうとするのです。
読み手によっては、この主人公に共感する人もいるでしょう。しかし、彼女の言っていることの正当性や、女性が傷つく瞬間の描写が絶えない作中で、主人公の視点だけが必ずしも正しいとは思えないと分かってくると思うのです。主人公の目線で見ることで、自分のこれまでの正しさとは真逆の価値観を目の当たりにし、わからなくて戸惑い、答えは見つからず、でもこれまでの自分ではいられなくなる、そんな追体験ができるのもこの作品の素晴らしいところだと思うのです。
彼女が求めていないロマンチックさ
冒頭で語った、求めているものの違い。彼女は主人公がする全てのロマンチックなこと(可愛いねと言う、おごるなど)を真顔で受け取ります。理由は、別に求めていないから。
求めていないことを、「結局女だから、こうしてほしいのだろう」と妄想して与えること、そして期待通りの反応がないと「可愛くない」と突き放すこと。このおかしさは、友人関係なら理解できるのに、どうして恋愛関係になると途端に分からなくなってしまうのでしょうか。
女性同士の抑圧も描く
そして「メガル(韓国内でのフェミニストの蔑称)」を脅かすのは、男性だけではないのです。女性もまた、「女性らしい格好をしなさい」だの「あの程度はセクハラじゃない」だの言ってくる。
男性だろうが女性だろうが、目上の人に性差別的な発言をされたら、何も言えなくなってしまうのです。
だから女性が「我慢すればいい」「女らしさを利用すればいい」「女にも問題がある」と言うこともまた、優位に立っているからできることなのではないでしょうか。上司と部下、男性と女性というインターセクショナルな関係性、そこで最も差別される人の声の上げづらさを感じずにはいられませんでした。
ひとりぼっちだと感じてしまう障壁の数々
男性からは当たり前のように嫌われる。女性も分かってくれる人が少ない。そんな中で声を上げようともがく彼女は、「自分が気にしすぎなのではないかと思ってしまう」と、そこにある問題を自分の感じ方のせいにされていると自覚します。
被害を否定するような発言は、当事者をどれだけ追いつめているのかがよく分かります。そして残念ながらそういった発言は2025年の今になっても止む気配を見せません。
「非婚主義者」になるということ
彼女は自分のことを「非婚主義者」だといいます。「夫」ではなく「人生」を選んだのだと。だから、未婚ではなく非婚なのです。
主人公の周りの男性はみな結婚していて、両親も結婚を早くしてほしいことをほのめかしています。結婚をすることが親孝行であり、人生のゴールであるという考えを強くもっています。彼女の母親や姉もまた、彼女に結婚してほしいと願っています。
こんなに結婚への意識が強い社会の中で彼女が非婚主義者になるなんて、周囲からみたら彼女は相当の「変わり者」。やはり風当たりは強く、たくさんの人に批判されながらも、それでも彼女は自分を貫くのです。読んでいて、絶対に結婚してしまったほうが楽だと感じることもたくさんありました。
そんな状況の中で、絶対に結婚はしないと、それほどまでに彼女の強い意志を作り出したのは、彼女がどうしても避けたい結婚の姿とは、いったい何なのでしょう。少なくとも、主人公たちが思い描く結婚とは程遠いものだと想像できます。
「わかった」経験を作ることはできない辛さ
彼女は、好きな言葉があると、主人公に伝えます。
説明しないとわからないことは説明されてもわからない。
突き放したように聞こえる言葉ですが、分かるなあ、と強く共感しました。
他人がどれだけ熱意をもって伝えようとしても、同じ景色を見ているか、同じ前提知識をもっているか、同じ経験があるかなど、「わかる」までには途方もない道のりがある。多分、「わかる」人は説明されなくてももうわかっている。
同意するとともに、やっぱりわからない人の「わかる」を作るのは、わかりあうのは、難しいのかな、と悲しい気持ちにもなってしまいました。
少しの希望を残す
それでも、最後には少しの希望がわいてきました。
主人公は、友人になぜ結婚をしたのかについて尋ね、「他にやることがなかったから」という返答に戸惑い、自分はなんのために生きているのだろうかと葛藤します。
また彼は、以前は気にかけもしなかったフェミニズムのデモがどこで行われているのか、どんな政治的発言があったかなどのニュースをチェックしています。
さらに、彼女の考えを、なぜ自分は、そして男は理解できないのだろうと悩みます。
彼の人生に大きな爪痕を残した彼女の存在のように、この本で問いかけられた問題は読んだ人に立ち止まらせる力をもっているのだと実感しました。
日本でも
この本では、フェミニストや女性を揶揄する言葉が多く登場しました。日本ではそれほど「フェミニスト/男性」や「"可愛くない"女性/男性」の対立が視覚化されていないように感じますが、フェミニストに対するステレオタイプは強いのかもしれません。
本作で出てくる、恋愛の中で“そういうもの”だとされているものの多さ、優しい仮面を被りながら女性を支配したい男性の存在、女性の権利を主張すると男性が生きづらいと主張する意見、どこをとっても、既視感しかないエピソードの数々に頷くばかりでした。だからこそ、日本で翻訳されたことには大きな意味があると思います。
この本を通して、もっと、すべての人が手を取り合って、喧嘩しないで、自分のしたい選択をできる社会になったら良いなと強く思いました。
恋愛と異性愛と。決めつける世界への叫び『ロブスター』
パートナーがいることを強制される世界になったとしたら、あなたは生き残ることができるだろうか?
そんな世界を描いた映画、『ロブスター』(2015年)。
昨年実写化されたエマ・ストーン主演の『哀れなるものたち』のヨルゴス・ランティモス監督による作品です。
妻に捨てられてしまった主人公はあるホテルに監禁され、指定された期間内にパートナーを見つけなければ動物にされてしまうという、風刺の効いたSF設定。
そこで彼が選んだ動物というのが、ロブスター。パートナーを見つけることができず動物にされるなら、私はロブスターになりたいという。
恋愛至上主義への批判
パートナーがいなければ動物にされるなんて、ユニークな設定…
本当にそうでしょうか?
恋人がいないことを「できない」という人たち。「いつかできるよ」と諭す周りの人たち。高い地位についている人は結婚していないと社会的信頼を得られないうっすらとした現実。
パートナーがいなければ何かしら欠けているとでもいうような、でも普遍的なこの価値観は、SFでもなく近未来でもなく、まぎれもない現実です。
この映画は恋愛至上主義的価値観を痛烈に批判しているのではないでしょうか。
異性のパートナーを見つけるよう強いられるシステム
ただホテルで暮らすだけではなく、パートナーを見つけるための数々のシステムが存在します。
ホテル内で開催されたダンスパーティーでは、男性はスーツ、女性はドレスを用意され、参加します。男女別に決められた服を着たパーティーの異質さは、言葉では説明できません。
朝食後の集会では、従業員の劇によって「パートナーがいない人の結末」がドラマチックに披露されます。パートナーがいないから女性は滑って転んで死んでしまう、パートナーがいないから男性は食事にむせて死んでしまう…。
そして、性処理さえもコントロールされます。自慰は禁止され、決まった時間に女性従業員による中途半端な性接触をされる。自慰をすれば罰を受け、従業員による性処理は拒むこともできない。もうすでに動物のように扱われているのです。
この中でパートナーを見つけようとする人に、相手への尊重や興味といったものはほとんど描かれません。動物にされてしまうと分かっていても、パートナーを見つけられず「人」生を終えてしまう人が一定数いるのです。これだけで、男性と女性が同じコミュニティにいたら勝手に恋愛に発展するだろうという思いこみを一蹴する力をもっています。ここまで異性愛の強調された世界では、同性カップルは1組残らず動物にされてしまうのでしょうか?
恋愛の有無を強要することはできない
主人公がなんとかホテルを逃げ出した先に待っていたのは、ホテルとは真逆の、恋愛禁止の集団。
もうパートナー探しなんてこりごりだと嬉々として受け入れたものの、ある女性との恋が知られて、ひどい仕打ちをうけ、その集団も追われることになります。
異性と対になることを強要され逃れたのに、恋愛をしたことで糾弾されてしまう。
恋愛をするもしないも、誰とするかも、決められすぎているこの世界のおかしさ。
何気ない決めつけによって苦しい思いをしている誰かの、一生懸命な叫びが、この映画では描かれていたように感じました。
この映画が公開されたのは、2015年。
パートナーを見つけなければならないという価値観の意識的・無意識的な強要や、異性愛の押しつけは、2025年の今でもこの世界で起こっていることなのではないでしょうか。
SFでありながら現実世界へ強い疑問を投げかける作品。今だからこそ観られるべき作品だと思いました。
結婚は人生の墓場「か?」
パンチのきいたタイトル。それを強調するかのようにでかでかと書かれた表紙。
タイトルを見た瞬間、吸い込まれるように手に取っていました。あまりにも的を射たタイトルなので、ブログタイトルもそのままにしてしまいました。
姫野カオルコさんの作品を読むのは今回が初めてですが、威力がすごかった。
結婚は人生の墓場か?というタイトルを見た瞬間、「ああ、結婚して専業主婦になった女性が、家事におしこめられ社会生活を制限される状況を、墓場だと言いたいんだな」と思いました。
しかし、それは勘違いでした。「結婚は人生の墓場だ」と思っているのは男性のほう。ヒステリックでお嬢様な妻に振り回されていく男性のお話でした。
けれども、本を読んだ後に思ったのは、「結婚は人生の墓場なのだろうか…?」ということです。まさにタイトル通り。
妻・雪穂
「お嫁部隊」として、見事高収入の夫を手に入れた雪穂は、幼稚園から私立のお嬢様校に通っていた生粋のお嬢様。行動の不可解さに驚かされます。中でも私が理解できなかった三大不可解を紹介しようと思います。
①高収入の夫に対し「お金が足りない」
作中、夫婦は何度も引っ越しをします。それは、子どもができたから、とか、親が心配だからというだけではなく、「元首相が亡くなったから」だったりするのです。そして、引っ越しは勝手に決めて事後報告。ボルボも勝手に買ってきて、事後報告。
子ども二人を高額な学費の私立に通わせ、それでも「パパの収入が少ないのよ」
②「だから公立はいやなのよ」
雪穂からすれば、公立は野蛮で常識のない人たちの集まり。
私の行動の背景を言葉なしに理解しろ、分からないのは公立だからだ。東大じゃないからだ。
公立だから、パパは私のことを理解してくれないという発言には、もやっとしました。
③こどもの情操教育
こどもの情操教育のために家を引っ越すこともしばしばありましたが、犬も飼い始めました。しかし、フタを開けてみると、散歩は夫に任せきり、「汚いから」とおむつをはかせケージに閉じ込める…
雪穂はすべて、悪気がひとつもないのです。素直なのです。だからこそ客観的に見てこわい。
しかし、小早川目線で、元同僚のミコちゃん目線で、教授目線で、作家の姫野目線で雪穂が語られるが、雪穂の目線で語られたことは一度もないのです。
だから、見えていないことがあるかもしれないとも思ってしまいます。なぜ雪穂は怒っているのか。泣いているのか。なぜお金がたりないのか。
しこめのいいわけ
主人公は出版社勤めということもあり、たびたび他の作品が出てくることがあります。中でも人気の出た『しこめのいいわけ』には、男性に媚びる女性の本質が書かれているように感じました。
『しこめのいいわけ』によると、「醜女=しこめ」とは、30歳以上で結婚しておらず子どももいない女性のこと。
これに対し、「美女」として対置される、結婚のできた女性は、「しこめ」に対し、
家庭環境に恵まれ頭もよくって、いい大学を出ていい仕事を見つけられた、おまけに美人でスタイルが良い。だから結婚しないで、恋愛を楽しんでいられる。
それに対して自分たちは、生きていくために、男に媚びてでも結婚をしなくてはならない。
と、思っている。
頭が悪いから、自分がないから、男に媚びて早く結婚して早く仕事を辞めるのが「美女」というわけではないことがよくわかる文章だなと思いました。むしろ、生きていくために、ある意味上昇婚と言える、戦略的に結婚をした、しなければならなかった女性たちだと言えます。
美女の苦悩が垣間見え、同時に、男女格差という大きな課題に、女女格差というもう一つの課題が追加されたように感じました。
結婚は人生の墓場か?
タイトルに立ち戻り、結婚は人生の墓場なのだろうかと、考えてみました。
夫・小早川の目線で言えば、「そうだ」と言えるかもしれない。けれど、他に登場する夫婦は必ずしもそうではない。
作者はあとがきで、配偶者のひとつの行動で、至福な結婚生活になるかもしれないと語っています。
これは、小早川の場合「妻を愛すること」ということだったと言えると思います。
少子化が問題となっている現在、未婚化もその一つの原因ですが、じゃあ結婚すればいいのか?子どもができればいいのか?結婚して子供ができたこの夫婦の「間違えた感」を見れば、そうではないことが分かります。
少子化問題や未婚化問題で話題になるのは、主に補償です。けれど、それ以前に、結婚とは一対一の関係です。第一に、相手を愛しているかどうか。こどもの頃はすべての夫婦がそうだと、当たり前だと思っていた大事なその部分を抜きにして、未婚は説明がつかないのではないでしょうか。
だから、結婚は簡単に決めていいことではない。補償を充実させても解決しない部分が結婚にはあるのではないか?とこの本を読んで思いました。
それでも、想像力。「罪の声」
昭和の未解決事件を描いた作品、罪の声。
映画化もされ話題となっていますが、すべては、巻末に書かれた、「あの子どもたち」に思いを馳せるためなのだろうなと感じています。
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この物語は、グリコ・森永事件という、1984年から85年に実際に起こった事件をもとに作られています。
グリコ・森永事件は、グリコ社長の誘拐に始まり、青酸ソーダをお菓子に混入しばらまくなどした、一連の企業脅迫事件です。
そして、この事件では、犯人からの脅迫文に、子どもの声が3度使われました。
この物語は、その子どもたちはその後どんな生活を送って、そして現在はどうしているのか?という作者の想いによって書かれたものだと言えます。
事件のリアルさ
実際に起こった事件をもとにしているため当然といえば当然ですが、リアルなのです。年月日、時刻まで詳細に記載され、臨場感にあふれ、読んでいてハラハラします。
事件の流れをささっと客観的に説明する時もあれば、当時の犯人の動きや警察の動き、そこで行われた会話まで詳細に、まるでその場を見ていたかのように語り掛ける場面もあり、その使い分けによって、事件を時にはグリコ・森永事件として、時にはギンガ・萬堂事件(この物語内での事件名)として見ることができるのです。その技術力には圧倒されます。読みながらネットでグリコ・森永について検索すること間違いなしです。
本当にこんな背景があったのではないか
子どもたちの、周りの人間の、その後は…。時々どこからがフィクションでどこからが現実が分からなくなるくらい、本当に子どもたちは事件後ああやって生活をして、あんな思いをしているのではないかと思ってしまうのです。
様々な可能性の推理力や想像力、調査力など、作者の多彩さが分かる作品だなと感じます。
この「物語」がもつ力
声を利用された子どもたちの今について書かれたのがこの作品です。作者は声を使われたのは犯人ではなく、未来ある子どもたちだということを強調していました。
本当にこうだったかもしれない、傷つき、脅され、普通の人生を送ることができなかったかもしれないと、私達に思わせてくれる作品です。
では、見えてこなかった者たちの人生が(事実ではなかったとしても)見えたとして、それが何かの解決になるのか?これから起こる事件の抑止になるのか?
それは、ならないと思う。
あの子どもたちが自分の人生について知ってもらったところで、今更何も救われないし、これから犯行を起こそうとしている人たちがこれを読んで改心するなんてことはありえないと思います。
それでも、想像すること。報道されるものの裏にある、一人ひとりの人生を慮ること。
あの声は、「犯行に使われた声」でもあり、「一人のこどもの声」でもあると認識すること。
それが、この物語の持つ力なのではないかと思っています。
浄化される言葉で自信がつく「羊と鋼の森」
「羊」と「鋼」、そしてその「森」である、ピアノを中心に、主人公の成長や劣等感の乗り越えなど、全ての人に当てはまる悩みに寄り添うような物語です。
他人に引け目を感じたり、自分なんて、と思っている人にこそ読んでほしい一冊です。
センスは必要か
主人公は、ある経験から調律師という仕事に魅せられ、ついに自分も調律師になりますが、学校を卒業して働くことになっても自分のセンスのなさに落ち込み、自分がどれほどできないかを先輩と比べ常に劣等感を抱いています。
私は同じような経験が多く、何をするにしても自分よりできる人、自分よりセンスがあって何倍も早く吸収していく人を目の前にして、諦めてしまうことがよくあります。
むしろ、自分より「すごすぎる人」を前にしてそれでも続けられる彼がすごいとさえ思ってしまうのですが、やはり、初めからできる人はいない、に尽きるのではないかとこの本を読んで思いました。
もちろん、調律師という仕事はセンスが求められる仕事ではあると思います。ただ音を合わせれば良いというわけでもないようなのです。それに、彼の仕事場には元ピアニスト志望の人や、海外のピアニストから指名されるような本当に「すごい人」が間近にいます。
でも、それでもしがみつくことに意味がある。向いてなくても、センスがなくても、必死にしがみつけば、気付いた時には周りから評価されているのです。
一度、周りの目や自分自身の自分への評価を無視して、やってみる!精神が大事なのだと気づかされました。
すぐ諦めたりかっこ悪いことを避けてしまう私ですが、できなくても向いてなくても、まずやってみる、続けてみる、何に関しても同じことだなと思います。
自分は恵まれていると考える
主人公やピアノの経験やクラシックへの親しみこそないですが、彼の生まれた土地は自然が豊かで、羊などの動物や森も身近なものだったのです。少し遠めでも、ピアノとの繋がりがあったということです。
例えばそのようなめぐり合わせで今の自分の選択があるのかもしれません。自分には何もないと思っていても、やはり生まれ育った土地や経験は他の人にはない唯一無二のものなのかもしれません。
自分の経験に劣等感を感じるよりも、自分が恵まれていた経験を思い起こすこと、自分にしかないものは必ずあり、それを見つけることで自信もつき、「確固たる自分」が見つかるのではないかと感じました。
直感に素直になる
主人公が調律師を志したきっかけはほんの一瞬でした。一瞬でも自分の心の大きな動きで自分の選択が決まるなんて、そんな素晴らしい経験はないと思います。
自分の感度を磨き続けたら、いつきっかけがきてもピンと来て、すぐ行動に移せるのかもしれません。そしてきっかけが来たら素直になり、余計なことをせず飛び込む勇気も必要です。
自分の人生において心から幸せなことは、心が常に動いていることだとこの本から感じました。心の動きに敏感になり、自信のなさは一回忘れて、「やってみよう!」と思える作品です。
過去との決別「勝手にふるえてろ」
過去は実際以上に輝いて見えるもの。
自分がどんなに冴えない生活を送っていた学生時代でも、あの頃はキラキラしていたな、とか、キラキラしていた人と仲良かったしな私、とか。特に、今の自分が絶望的に受け入れられない時。
でも今を生きるためには過去とは決別しないとやっていけない。過去に少なからず翻弄されている自分にそう言ってやりたくなった作品、勝手にふるえてろ。
タイトルがかっこいいと思って見始めた本作ですが、共感と教訓がたっぷり詰まったリアルな物語でした。
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主人公のヨシカは、中学生の初恋を10年間引きずるOL。一方で会社である男性から好意を持たれ、戸惑いながら殻を突き破る物語です。
どうして過去は輝いて見えるのか
早く卒業したいなと思っていたのに、いざ卒業すると「輝いていた、楽しかったあの頃に戻りたい」と思えてきたりする。
この現象ありませんか?私は結構あります。もし本当に戻ることができたとしても、結局同じように「突き抜けたい!こんなもんじゃない」と思ってしまうのだろうなと思います。
この物語の主人公ヨシカは、過去を「自分が輝いていたもの」としては見ていないですが、初恋相手の「イチ」との思い出はヨシカフィルターがかかっているように見えました。イチはみんなから好かれる好青年で、ヨシカとは心から繋がっていて、そしてそれは今も変わっていないはず。そんな、ヨシカ目線、ヨシカ希望のイチが10年で作られていっているようでした。
それは、一番は現状への不満と、本当の自分を出せない燻りがあるからなのではないでしょうか。それは必ずしもマイナスではなくて、「本当は私はこんなことができるのに、それが今の環境では出せない!輝ける場所は別にあるはず!」という自分への期待も、少しは詰まっていると思いました。
諦めたように見えても、やはり、少しは自分を信じる気持ちがあるという人間の複雑な感情が細かく描かれているように感じます。
自分を卑下するという逃げ
とはいえ、ヨシカは基本的に全てのことに、特にイチに対して、そして恋愛に対して、「私なんて」と自分を卑下しがちです。
少しの自信はもっているんだけど、それを外に、みんなに見せるのは、ちょっと…みたいな感情が動いているように見えました。
人には言えないけど、実は自分のことまあまあ好きだし、直さなきゃいけないところはあるけど、それが自分の持ち味のような気がするし、とか、ひそかに信じている自分の存在って、周りに知られて「屁理屈言わずに治しなさい」とか思われたら怖いし。
とにかく、卑下しておけば周りはもう持ち上げるほかないし、傷つかずに済む。それから自分が少しでも自信をもっていることはバレない。
卑下という逃げ、やりがちです。そうすることで失うものもあることも知りながら、です。
勝手にふるえてろ
映画を観た後、小説を読みました。
強烈なタイトル「勝手にふるえてろ」。映画と小説で、その言葉の矛先が違うように感じました。
映画では、「こんな臆病な私の心臓、勝手にふるえてろ」。小説では、「びくびくしているイチ、私はもうあなたとは決別する。イチなんて、勝手にふるえてろ」。どちらもしびれるメッセージ。
同時に、どちらも過去や嫌いな自分を突き放すパワーに溢れた言葉だと思いました。
綿矢りささんの、鋭く時には痛い言葉は、鋭く痛いからこそ、人を前に進める力を持っているのでしょう。





